CAHIER

フレームのこちら側

 井上陽水さんのライブをTVで観た。テロップで流れる歌詞を追う。歌として響いてくる言葉との相乗効果。難解に思えるフレーズも自然に感じることができる一瞬がある。陽水さんの歌詞は比喩や暗喩と捉えていいのか、聴感上の遊戯と捉えていいのかが難しいのかもしれないが、例えば視覚的にそのまま受け入れるだけでも、情緒的に響いてくるフレーズもある。

時々はデパートで孤独な人のふりをして
満ち足りた人々の思い上がりを眺めてる

 「長い坂の絵のフレーム」の一節。平日の昼下がり、デパートの階段の踊り場。ベンチに座ってぼんやりしてる人をよく見かける。僕は、その光景に、子供の頃から不思議な感覚を覚えていた。仕事の途中に休憩しているのか、それとも誰かを待っているのか。どこから来たのかわからず、どこへ行こうとしているのかわからない人々。風体はきちんとしている。公園や河原とは違うデパートという場所。稼働する世界の真っ只中、しかし休息にも相応しい、午後の時間帯。どこかの階に目的があるわけでもないのだろう。上でも下でもない場所。「ベルリン天使の詩」の天使とも違う。そう、もし天使がいるなら、すぐそばで聞き耳を立てている。

 震災後、落ち着かない世の中が続いている。そうでなくても、怪しい世情だった上に、価値観を問われる一撃を喰らった。陽水さんの言う「長い坂」とは人生や歴史を指すのか。であれば、「フレーム」とは正に枠。人生の枠組み・・。しかし、「絵」の「フレーム」なのである。流れ行く人生の枠ではなく、静止画の枠・・。嗚呼、僕も踊り場のベンチで行き過ぎる人々を見ている。

 陽水さんにお逢いすると、あの詩の意味は?とつい口走りそうになる。本来、詩の意味を問うのは、それこそ意味がない。その言葉に触れた者の感性で感じるままが、その時の真実なのだから。後に別の解釈や感想を持っても、またそれも正しい。作者の意図はあるにせよ、実はそれとて時間が過ぎれば変化したりもする。

 と、わかってはいるのだが。

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