SKETCH SHOW(スケッチ・ショウ):

2002年、元YMOの高橋幸宏と細野晴臣の2人が、YMO以来初めて結成したバンド。02年8月に開催された石野卓球主催のイベント「WIRE02」でスペシャル・ライブを行い、超満員の観客を魅了。02年9月、朋友・坂本龍一やテイ・トウワも参加したデビュー・アルバム「audio sponge」をリリース。同年12月、コーネリアスこと小山田圭吾などがバンドメンバーとして参加したライブは、東京・大阪共に全公演即日ソールドアウト。シークレット・ゲストとして坂本龍一が出演するなど大きな話題となった。今年2月には、コーネリアスのリミックス・バージョンを含むミニ・アルバム「tronika」をリリース。また、6月にはバルセロナで行われたエレクトロ・ミュージックとアートのフェスティバル「sonar2003」とロンドンの「CYBERSONICA'03」に出演、20年ぶりのヨーロッパ公演を果たし国内外で大きな話題となった。7月にはインベーダーゲーム25周年記念スペシャルCD「スペースインベーダー大作戦」に参加。9月には昨年のライブを収録したDVDを発売。また、同日発売されたデイジーワールドのコンピレーションアルバム「audio sponge 1」には、坂本龍一とのユニット"HUMAN AUDIO SPONGE"名義でも参加。11月に待望のセカンド・アルバム「LOOPHOLE」をリリース。

■高橋 幸宏 YUKIHIRO TAKAHASHI

1952 年 6月 6 日 生まれ。
高校在学中よりスタジオ・ミュージシャンとして活動を開始。'72年、加藤和彦率いるサディスティック・ミカ・バンド に参加。ロキシー・ミュージックとともに全英ツアーを敢行する('74年)も、帰国後、直ちに解散。

その後、サディスティックスを経て、'78年2月、細野晴臣の呼びかけに応じ、坂本龍一とともに イエロー・マジック・オーケストラ ( Y.M.O )を結成。内外の音楽はもとより、あらゆるアートの世界ともリンクし、圧倒的な影響を残した。'83年12月の「散開」をもってその活動を休止。その後10年の歳月を経て'93年春、「再生」。アルバムの発表と2回だけのコンサートを残し、再び沈黙の時代へと入った。

'78年のアルバム『サラヴァ!』以来、ソロ・ワークもまた充実した動きを見せており、'99年発表の『THE DEAREST FOOL』(CONSIPIO RECORDS)までに、通算20枚のオリジナル・アルバムをリリースしている。

また、その一方で、鈴木慶一(ムーンライダーズ)とのユニット THE BEATNIKS 、スティーブ・ジャンセン(ex; JAPAN〜Raintree Crow)とのユニット PULSE など、コラボレーションの活動に関しても活発である。その他、世界的にも有名なファッション・デザイナー、山本耀司のパリ・コレクション用音楽の製作や、作家・椎名誠の監督による映画作品の音楽監督なども務める。プロデューサーとしての作品も多数あり、近年では竹中直人、エリック・ソン、TOMOVSKYなどを手がけている。

音楽家としての顔を持つ一方、ファッション・デザイナーとしても長いキャリアを持ち、'70年代初期からスタートさせ“Bricks”“Bricks - mono ”といったブランドから'90年代に入っての“YUKIHIRO TAKAHASHI COLLECTION”に至るまで、高い評価を集めている。

趣味はもっぱら釣り。ここ数年はフライ・フィッシングに夢中である。

■細野晴臣 Haruomi Hosono

1947年7月9日生まれ。'69年、「エイプリル・フール」に加わりプロとしてデビュー。'70年、大滝詠一、鈴木茂、松本隆とともに「はっぴいえんど」を結成、優れた日本語による歌詞とサウンド・プロダクションによって高い評価を得、'73年に解散、伝説のグループとなった。同年、埼玉 県の狭山に移住。豊かな演奏力とユーモアに溢れるファースト・ソロ・アルバム「HOSONO HOUSE」を自宅録音で製作。このときのプレイヤー、松任谷正隆、林立夫、鈴木茂が核になって後のミュージシャン集団、ティン・パン・アレーが生まれる。ティン・パン・アレーは'77年まで流動的なサウンド・プロデュース・チームとして活動し、荒井由実、南佳孝、山下達郎、吉田美奈子、矢野顕子、大貫妙子などのレコードに新鮮な音楽を提供、細野晴臣はベーシストとして中核の役割を果たす。ティン・パン・アレーのセッション・ワークと平行して'75年、ノスタルジックなポップスの探求がエキゾティックというキイ・ワードによって強化された「TROPICAL DANDY」発表。日本のポピュラー界に衝撃を与える。翌年、その傾向をさらに推し進めた「泰安洋行」を発表。その独特の音楽を自らチャンキー(ごった煮)・サウンドと命名する。'78年、「はらいそ」のレコーディングに参加した高橋幸宏、坂本龍一と意気投合。同年、Y.M.O.としての第一作を発表。Y.M.O.は音楽的にもセールス的にも世界的な成功を収め、音楽界全体の動向にも強い影響を及ぼした。活動中に唯一のソロ・アルバム、「フィルハーモニー」を発表、またYENレーベルを設立して新人発掘を行った。この時期は歌謡曲畑や他者のプロデュースでも特に多くの仕事をこなし、独特のサウンド・プロダクションをメジャーな領域で展開しヒット曲「天国のキッス」「禁区」「ガラスの林檎」などによってメロディー・メイカーとしての才能を広く知らしめた。Y.M.O.は'83年に散開。翌年、レーベル「ノン・スタンダード」「モナド」設立、Y.M.O.時代にやり残したポップスや、やりたくても制約の中で実現できなかった形式の音楽を立て続けにリリースする。'85年、アニメーション「銀河鉄道の夜」の音楽を製作。翌年、全曲を20世紀の名曲からシュミレーションした越美晴のアルバム「echo de MIHARU」レコーディング開始、'87年発表。'89年、「Omni Sight Seeing」発表、玉 石混交のワールド・ミュージック・ブームに湧く日本に本家の実力を示す。'91年、一枚のレコードを創るため忌野清志郎、坂本冬美とともにユニット「HIS」を結成、異色の「こぶし」「歌心」へのアプローチがアルバム「日本の人」に結晶した。'92年と翌年、青森県森田村の野外円形劇場でアイヌ民族や縄文文化に関連するコンサートに出演。'93年、「近年ようやくたどり着いた」というネイティヴ・アメリカン精神への共感が結実した「メディスン・コンピレーション」発表。同年、突然のY.M.O.再生。「火種がくすぶっていたY.M.O.を終わらせるための再生」と発言する。'95年1月、遊佐未森、甲田益也子、小川美潮を迎え、プロデュースに2年の歳月をかけて完成したアルバム「LOVE, PEACE &TRANCE」を発表。4月、アルバム「N.D.E」を発表。8月23日〜9月3日に開催された「1995年ユニバーシアード福岡大会」開閉式・音楽監督として制作。10月、アルバム「ナーガ」を発表。'96年3月、Bill Laswellとのコラボレーション・アルバム「インターピーシス・オーガニゼイション」をテイチクより発表。10月、越美晴とのユニット"swing slow"のソロ・アルバムをマーキュリーよりリリース。12月には新レーベル"デイジーワールド・ディスク"を発足し、アトムハート、テツ・イノウエとのユニット「ハット」とコンピレーション・アルバム「デイジー・ワールド・ツアー」を発表する。'97年8月、プロデュース作品としてワールドスタンダードのアルバム「カントリー・ガジェット」、シーナ&ザ・ロケッツの「@HEART」をリリース。10月には作曲・プロデュース作品として森高千里のシングル「ミラクル・ライト」を発表。11月には「ハット」の2枚目のアルバム・レコーディングのためにチリへ渡航。12月にデイジーワールドからリリースされる、ラウンジミュージックのグループ"ヴァガボンド"のクリスマス・シングルにはヴォーカリストとして参加。'98年、森高千里のアルバム「今年の夏はモアベター」をプロデュース。6月にはハット名義でアルバム「DSP ホリデー」をリリース。'99年には久保田麻琴とともに「ハリー&マック」を結成し、70年代のスワンプサウンドを彷彿とさせるアルバム「Road to Louisiana」を発表。'00年3月、これまでの活動を4枚のCDに収めた『HOSONO BOX 1969-2000』を発表。そして'00年11月、鈴木茂、林立夫とともに"ティンパン"を結成し、アルバム『ティンパン』を発表。12月には東京・大阪でコンサートを開催した。'01年が明けて、25年来の盟友、小坂忠をプロデュース。アルバム『People』をエピックレコードより11月にリリース。'02年には高橋幸宏とYMO以来初めてふたりのバンドを「スケッチ・ショウ」を結成。